第8無駄話「名前について考える。」(03/12/20)
 

 

 名前は大切である。(拾った)哲学の教科書を読むところによると、私、中野貴雄が中野貴雄と周りからちゃんと、中野貴雄という風に認識できるのは、中野貴雄という名前のおかげであるらしい。もし、世の中に名前という物がなかったら、私とパソコンとも、鍋とも、ティッシュとも、道に落ちている空き缶とも区別がつかないということになる。実際に名前がない世界がどんなものか想像するのは難しいが。

 哲学の話とは関係ないのだが、小学校の3、4年の頃に自分の名前について考えたことがあった。生まれてから、親(だけとは限らないが)から名前を貰う。日本人の場合、漢字の名前がやはり多いと思うが、自分の名前の意味が分かってくるのは小学生になって、漢字を習い始めてからではないだろうか?もっとも、親から意味を聞いた場合は別だが。

 自分の名前の意味が分かるまでは、名前とはただの識別記号のようなもので、また、音声である。兄弟や友達と区別するために発せられる音声なのである。

 私の場合、小学校の中学年くらいで名前について考えた。私の名前は「貴雄」。「貴」と「雄」。厚かましいことに、当時の私が考えたのは「貴族」の「貴」と、「英雄」の「雄」。別に「貴婦人」の「貴」と、もうそれこそ「雄(オス)」でも良いのだが。何にせよ当時の私は、「なんて良い字なんだ。」と思ったのであった。そして、最終的に思ったのは「名前負けしてるんじゃないか?俺。」って、そんな感じだった。

 今の私が「貴雄」という名前に負けているかどうかは別として、私の芸名は「ナカノ実験室」である。2回生くらいの時に「ピストン中野」や「ナカノ分室」という他の芸名候補を勝ち抜いて決まった芸名である。

 「実験」とついてるからには、何か実験的な演劇でもするのかな?と、思われるかも知れないが、さして実験的なことをしたわけではない。京都演劇界で私の名前を知っているけど、中野貴雄のことを知らない人はどう思っているのだろうか?ものすごい、実験的なことをやる人なんだな。って思われていたら、それこそ名前負けだ。

 あと、芸名というものを考えた場合、芸名でいる時と、本名でいる時というのは確実にある。どうも、僕はナカノ実験室であることが多いと思う。「ナカノサン」と呼ばれても、それは「ナカノ実験室」の「ナカノ」であって、中野ではない。以前、学生課で書類を作ってもらう時に、「中野貴雄」と署名したのだが、妙な違和感があった。この名前は誰のだろう。

 何か、文章的にオチがつかなくなって来たが、名前というのは、これほど、ダラダラ文章を書いてしまうほど、考える所の多いものである。ちなみに、私の「タカオ」という名前は決定稿なのだが、没候補に「ノブヒコ」というのがあったらしい。「ノブヒコ」だったら、こんな文章書かなかったのかな?

 でも、「ノブヒコ」っていやらしい株の買い方して、強さランクAって感じしませんか?

 

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