第16無駄話「偽善万歳」(04/02/05)
 

 
 
 最近、「偽善」ということを良く考える。別に週間少年ジャンプで好評連載中の和月伸広先生の武装練金に影響されたというわけではない。
 偽善を手元にあった辞書で調べてみる。意味は「うわべだけ良い行いをすること。」。意味から考えると外から見ると良いことをしているが、腹の中では何を考えているか分らないということだと思われる。良いことをやっているように見えて、実は悪いことをしているというのは「偽善」ではない。
 さて、今回このような話を書いているのは「偽善」というモノが不当な扱いを受けているのではないか?と常々思うからである。勿論、「偽善」という言葉の意味を考えると「不当な扱い」という表現は正しくないのかも知れないが、私が考えるのは、「偽善の何が悪いのか?」ということである。
 何か一つのことを考える場合はその逆を考えるのことが良い方法だと思う。インフォシークで検索した所、「偽悪」。意味は「わざと悪を装うこと。」。どうも偽善の意味と対になっていない気がするので、「善行」を考える。偽りのない、心から良い行いをすることを意味するのだろうか。
 偽善がどうしてイメージが悪いかを考える。極端な例を考える。お婆さんが重い荷物を持っているとする。重くて歩くのが大変そう。そこに現れた若者が「荷物を持ちます。」と申し出てお婆さんの目的地まで運んだ。お婆さんは非常に助かった。お婆さんが若者に「ありがとうございました。」と言うと若者は「いやあ、お婆さんの荷物を運んであげてたら良い人に見られるだろうし、もしかしたらお礼にお茶くらいおごって貰えるかもしれないって思ったんで、気にしないで下さい。」と言った。さてお婆さんはどんな気分になったのだろうか?良い気分ではないだろう。お茶をおごったのだろうか?
 上の例は若者が自分で告白をしているので偽善ではない。勿論、お茶や現金なんかを要求すると偽善ですらない。しかし、若者が心の中で上の台詞のようなことを考えているとそれは偽善になるのだ。
 結果のみを考えよう。若者は自分の心のうちを話さない。結果としてお婆さんは目的地に楽につけたわけで、結果としては良いことである。これは心の綺麗な若者に運んで貰った時も結果だけ考えれば同じなのである。勿論、心が違うわけであるから、途中で話をしている時等に伝わるものの違いはあるかも知れない。しかし、明らかに不審人物にはお婆さんも荷物を預けないだろう。
 偽善という考え方は、非常に精神面に偏った考え方である。おおまかな言い方をすると、「善い事をされても、心が伴ってなければ嬉しくない。」ということである。そして、その割には金銭面にも顔を覗かせる。ボランティアは偽善だろうか善行だろうか?無償奉仕。すばらしい言葉である。しかし、お金は貰わないが貰えるものはある。「自分は良い奴に思われたい。」、「あわよくばボランティア活動で知り合って彼女を作りたい。SEXしたい。」そんなことを考えてボランティアに臨む人達は偽善者なのだろうか?結果だけ考えると低コストで海岸が綺麗になったりするので、非常にすばらしいことである。さて、邪悪な考えの元でボランティアをすれば、真面目に作業をしないのではないかと思うかもしれないが、偽善は外からみて良い事をしているように見えないとだめなので、偽善者はせっせと働くだろう。働いているように見せて働かないのは偽善者ではない。
 お金のことを考えてみる。最近、TVを見ていると信号機に対して飽くなき探究心で挑みつづけた一人の職人が紹介されていた。西日を浴びても点灯しているように見えないようにすることを可能にした人だった。彼を支えた思いは「性能の良い信号機を作って事故を防ぎたい。」。そんな思いだった。私は非常に感心して、そばにいた父に「えらい人もいるものだ。」と言った所、父は一言「金のためだ。」と言った。
 別に父を批判しようというつもりはない。父とは歩んだ人生が違うし、若輩者の私には考えが及ばない部分もあるだろう。しかし、「お金のため。」という言葉がつくとたちまち印象が悪くなる。「私は世界の砂漠化をくい止める仕事をしています。お金のためです。」、「私は難病に苦しむ人達を救いたいと思います。お金のためです。」、「私は皆さんにおいしいパンを焼いています。お金のためです。」。こんな極端な台詞は日常では飛び出さないのだが、全てのものがうさんくさく聞こえるのではないだろうか?
 しかし、心の中で思っていることはどうであれ、お金を稼ぐことは大切である。お金がなくなれば、ほとんどの人が死ぬだろう。だから私はお金を目的に良いことをしている人のことを偽善だと思わないのである。お金を目的としない仕事なんて存在しないし、その仕事が人の役にたてばすばらしいことだと思う。偽善だとは思わない。
 ここまで、結果という物質面に重点をおいて話してきたが、別に精神面を軽んじているつもりではない。しかし、物質面のことを考えないで、何でもかんでも「偽善」という言葉で片付けてはいけないと思うのである。思うに、偽善という言葉は精神的に余裕のある人達が作ったのだと思われる。結果はともかくとして、「そんな気持ちでされても嬉しくない。」という訳だ。しかし、世の中には精神面など考える余裕などなく、物質面を要求している人達も沢山いる。
 クリック募金というモノがある。私のHPのトップページからリンクしているものである。仕組みは、リンク先のクリック募金というボタンをクリックすると1日1クリックにつきスポンサーの企業がクリックした人に代わって1円募金してくれるという仕組みになっている。募金は世界中の困っている人達に使われる。偽善である。スポンサー企業は1クリック1円に見合う見返りは確実に受けている。先ずは企業イメージである。積極的に世界を救うということに力を入れている企業イメージがつく。売上にも影響してくる。また、企業が独自に行っているクリック募金は企業HPで行われるので、クリックしたついでに企業の商品やサービスに興味を持って貰える可能性は非常に高いのである。1日1万人がクリックしたとして、月30万円。1年で365万円。広告費としては格安だろう。
 さて、上記のような企業の企みを読むと、クリック募金というものが悪いものに見えて来るかも知れないが、ここで結果ということを考えたい。10円あれば1人の命が救える国がある。10クリックである。本当に困っている人、飢餓や薬があれば治る病気で死んでいく人達は、企業の企みがどうであろうが、偽善であろうが、死なないためにはお金が必要なのである。勿論、正しい心から送られたお金で救われた方が気持ちが良いと思うが、死の現実とはそんな考えからは超越していると思うのだ。
 それだったら、システム運営に伴うお金や電気代を募金した方が世界は救われるのではないかと思う人がいるかも知れないが、それは環境を汚すから自動車に乗らないのと考えるのと同じレベルの話である。ジュース1本分のお金を募金したら沢山の人が助かるだろう。
 さて、私も上で説明したクリック募金のHPにリンクをすることで、精神的な恩恵を受けている。こんな言いたいことを言っているだけのHPだけれど、もしかしたら誰かを助けているかもしれないと考えることが出来る訳だ。「世界を救いたいです。」とか言うことも出来るのである。私が浮かれようと、自分の行動を肯定しようと偽善であろうと、そんなこととは関係なく世界のためになるはずである。
 これまで「偽善」というものを考えた訳だが、思うに「偽善」ということを考えたのは「善者」でも「偽善者」でもなかったのではないだろうか?「善者」が考えそうなことではない。「偽善者」が自嘲的に作った言葉の可能性もあるのだが、その可能性はおいておこう。自分から良いことをする訳でもなく、下心を持って良いことするものは「偽善者」と呼ぶ。だが、悪人という訳ではない。そして精神面を重視する。非常に半端で無責任な連中であると思う。勿論、「偽善」という言葉を作った人を私は知らないので、想像の域は越えない考え方ではある。また「偽善」という言葉を作ったのは「偽善者」という可能性はあると思う。
 生活に余裕があるせいか、非常に精神面が重視される世の中だが、精神面を重視するならば同じ割合で考えなければならないと思う。生と死が関わってくる状況においては物質面のみが重視されることだってありえると思う。気持ちのこもった1万円と、気持ちのこもっていない100万円。どっちが嬉しいかはその人の精神状態と懐の具合によって違うだろうが、100万円の方が1万円の100倍人を助けるだろう。
 最後になるが、私は精神面を軽んじようと考えているわけでは決してない。そして、私は偽善者である。

 

 

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